『空気が支配する国』の独自の視点は、「空気」による支配を一部肯定したところにある、という話。

物江潤氏の新著『空気が支配する国』(新潮新書)を読みながら、つれづれなるままに空想を遊ばせている。週末だから脱線する。
   
山本七平氏による「空気」の発見以降、知識人による「空気」論というのはいくつかある。
 
物江氏の『空気が支配する国』の独自の視点は、日本に生きる者として「空気」による社会統治の利点を認め、「空気」を読みそれに従う行き方(「行き方」表記を用いる)を現今主義と名付けてある程度積極的に評価している点だ。
 
後に引用するつもりの冷泉彰彦氏の『「関係の空気」「場の空気」』(講談社現代新書2006年)もそうだが、おそらく今までの「空気」論では、「空気」による社会統治のあり方や、「空気」を読み読ませる行き方を、忌避し脱却すべきものという見方を前提としてきた。これはかなりの部分、論者の立ち位置によると思われる。
「空気」による社会統治や「空気」を読み読ませる行き方を当然視するものは、あえて「空気」について考え論じようとはしない。そうした者にとって「空気」による支配はあって当たり前、無いと死んでしまうものなのだ。本当に、山本七平氏はよくぞ「空気」と名付けたものだなあ。
 
今までの「空気」論者はそうした「空気」支配を嫌い、「空気」支配の場から脱出した上で「空気」を論じたから、当然「空気」は悪者になる。
しかしながら物江氏の「空気」論は、「空気が支配する国」の中で地に足をつけ生活し実務を行う者が、災害やコロナ禍などの困難に打ちあたりながら役所と交渉したり、塾の運営を通しスクールカーストとSNS禍の中で未来を目指す中高生と対話しながら実直に考え抜いたものだ。
その結果、「空気」による社会統治の良い面、具体的には方向性決定と周知のスピード感などを肯定しつつ論じているのが独自の視点と思われる。
 
週末なので悪ノリで脱線するが、こうした生活に密着した街場の中で立ち上ってきた思想家が陥りやすいワナがあるので指摘しておきたい。
 
生活の中で生まれ出たオリジナルの視点と思想を育てていくうちに忙しくなり論考と生活が乖離しまわりに礼賛者ばかりになってくると、その独自性ゆえに論者の孤独と不安が募ってくる。その結果、もっとも身近なリアルである自らの肉体を鍛え始める。肉体は鍛えればそれに応えてくれるし、なによりリアルな生の実感を与えてくれるからだ。そうこうしているうちに頭にマチズモの毒が回ってきて、時代とズレはじめるという悲劇が待つが、内田樹氏や松本人志氏の悪口を言ってはいけないし、もう一人ビッグネームを挙げたいが市ヶ谷に立てこもられるといけないからやめておく。
いずれにせよ、物江潤氏がインスタやTwitterに筋トレや古武道稽古の写真をアップし始めたら、我々は力づくで止めねばならない。余計なお世話だ。
(続く)

 

空気が支配する国 (新潮新書)

空気が支配する国 (新潮新書)

  • 作者:物江 潤
  • 発売日: 2020/11/18
  • メディア: 新書