「人」と「人間」-『空気が支配する国』を読んで(その2)。

〈しかし人が人間関係においてのみ初めて人であり、従って人としてはすでにその全体性を、すなわち人間関係を現している、と見てよいならば、人間が人の意に解せられるのもまた正しいのである。だから我々は「よのなか」を意味する人間という言葉が人の意に転化するという歴史全体において、人間が社会であるとともにまた個人であるということの直接の理解を見いだし得ると思う。〉(和辻哲郎『人間の学としての倫理学』岩波文庫2007年p.19-20)
 
『空気が支配する国』(物江潤 新潮新書)を読んで、いろいろと空想を遊ばせている。
 
なぜ日本人は空気を守るのか。その理由として物江氏はこう書く。
〈(略)私なりに重要なポイントを突き詰めると「日本では人間が一番偉い」という特徴に尽きると思います。〉(前掲書p.18)
神が偉い国では「空気」より神が優先される。
党が偉い国では「空気」より党が優先される(ひええ)。
 
日本では人間が一番偉いから、なによりも「空気」が優先されるわけだ。
しかし一方で、人間が一番偉いがゆえに生み出された「空気による支配」は、いつしか人間を越えてゆく。
〈(略)あくまで空気が「主」であり、人間は「従」なのです。〉(前掲書p.131)
これはいかなることかと考え、ひとまずの答えを得た。
日本で一番偉いのは、「人間(にんげん)」ではなく「人間(じんかん)」なのではないか。
 
人間が一番偉いときくと、個としての「ひと」に絶対的な価値と信頼をおく、西洋的なヒューマニズムを想定する。
西洋的なヒューマニズムはおそらく本来、嵐の荒野に1人立つライオンのごとく強いもののはずだ。神すら含めた誰からも愛されない絶対の孤独と、誰をも愛さない絶対の自由にもとづく個人というのが西洋的な「人間が一番偉い」であろう(もちろんそううまく行かないのは歴史が証明している。神をも殺したフランス革命のあと、人間はさみしくて「最高存在の祭典」とかやっちゃってるし、20世紀にはヨーロッパ人の一部は全体主義にからめとられた)。
 
それに対し日本の「人間が一番偉い」主義はそこまでの覚悟はなくなまぬるい。
だから日本の「人間が一番偉い」というのは、「人間(じんかん)が一番偉い」、関係性が一番偉いと読み替えるべきではないだろうか、というのが昨日思ったことです。
(たぶん続く)

 

空気が支配する国 (新潮新書)

空気が支配する国 (新潮新書)

  • 作者:物江 潤
  • 発売日: 2020/11/18
  • メディア: 新書