『空気が支配する国』と『プリンシプルのない日本』

それは2019年4月1日、午前11時50分のことだった。人生ただ一度のことだったのでよく覚えている。生まれて初めて、「空気読んで…」と口にしてしまったのだ。
だって、これから新元号が発表されるというので診療所でテレビの前にみんなで釘付けになっていたら、「風邪薬ください」っていきなり患者さんが入ってくるんだもの…。あ、きちんと診療しましたよ、もちろん。

物江潤氏の新著『空気が支配する国』(新潮新書)を読みながらそんなことを思い出した。
なんとなくでものごとが決まり、なにかあっても誰も責任を取らない。それどころか、誰が決めたかすら曖昧で、そのくせその場の人を支配する。そんなものを山本七平氏は「空気」と名付けた。よくぞ名付けたものだと思う。

安易な日本特殊論に乗るつもりはないが、たしかにこの国に生きるものとして「空気」の存在は認めざるを得ない。
もちろん他国にも「空気」的な、曖昧なのにそれでいて構成員を縛るムードのようなものはあるというのがぼくのスタンスだ。同調圧力という言葉そのものがpeer pressureの訳語だろうし、そういう状況がなければpeer pressureという言葉も生まれないだろう。
ぼくの世代だと、2003年にアメリカがイラク侵攻した際に大統領を非難したカントリーバンドのディクシー・チックス(現在はチックスに改名)が袋叩きにあい、その後ミュージシャンが反戦を言いづらくなったのを覚えている。
また2020年のアメリカ大統領選では、トランプ・バイデンどちらの支持者も批判や反感や社会的不利益を恐れて支持を明言しづらかったときく。
アメリカでも「空気を読む」的な言動がある例として挙げておきたい。
D.リースマンも『孤独な群衆』の中で、近代アメリカ社会を「他者指向型」であると指摘した(が、一方で「伝統指向型」と「内部指向型」と「他者志向型」は社会の中で混在する、としている)。

アメリカ人も「空気を読む」、と主張した。
だがしかし、彼我の差は何だろうか。
物江氏は、「日本で空気の支配が強いのは、明確な掟がないため」と主張する。そして過剰なまでに「空気を読みあう」行き方(「行き方」表記を用いる)を現今主義と名付けた。
宗教や思想などの明確な掟が存在する場では、「空気」は幅をきかせにくい。
人々が、「空気」より「明確な掟」に従うからだ。

アメリカにも「空気を読む」ことがあるが、それへのカウンターとして民主主義とかキリスト教、特にバイブルベルトではキリスト教原理主義が歯止めをかけている(のではないか。アメリカを理想化、概念的に扱っている危険があることに留意)。

宗教や思想や価値観など、己を律する内在原理をprincipleと呼ぶ。
誰かが「It's my principle」と言えば、他者はそれ以上踏み込むことは出来ない。なぜなら、principleだから。

日本にはprincipleがない、と言ったのは白洲次郎だった。
「空気が支配する国」と「プリンシプルのない日本」は、表裏一体なのである。
(続く、かも) 

 

空気が支配する国(新潮新書)

空気が支配する国(新潮新書)

  • 作者:物江潤
  • 発売日: 2020/11/18
  • メディア: Kindle版