社会がどう変わってゆくかに野次馬的関心がある。
まだまだ予断を許さないとはいえ、2022年のゴールデンウィーク明けにコロナ感染の爆発がなかったことは日本社会に自信を与えた。
大多数がワクチン接種を終えたあとであれば、2022年のゴールデンウィークくらいの社会活動は出来る(のではないか)ということで、だんだんとコロナ禍前の社会に戻りつつある。
それを前提に関心があるのが、リモートワークなどの遠隔での社会活動がどこまで定着するのかしないのかということだ。
多くの方々と同じように、ぼくもまたハイブリッド型の社会になっていくのだろうと予想する。
中国古典の『易経』では、物事の進行や人間の活動を、〈陰〉と〈陽〉の両面から考える。
安岡正篤氏の著作では、陰陽を植物に例えてこう説明している。
〈(略)一番わかりやすい具体的な例は植物であります。草木を産み育てていく創造自体は何かと申しますと根であります。次に幹であります。これが根幹であって、枝葉が分かれ、花が咲き実がなる。そこでこれを陰陽で申しますと、根幹が陰の代表であり、枝葉と花実は陽の代表であります。〉(安岡正篤『易と人生哲学』竹井出版 昭和六十三年 p.87)
安岡氏は、〈陰とは統一含蓄であり、陽は発現分化〉(p.88)とまとめている。
占いとしての易は信じていないが、物事の捉え方として非常に面白い。
根幹から発して上へ上へとどんどん枝葉を伸ばし花を咲かせる発展の方向性が〈陽〉、煩雑になり過ぎた枝葉を切り落とし物事の根幹へ根幹へと掘り下げてゆく方向性の精神活動が〈陰〉。さらに重要なのが、〈陰陽相待って堅実な創造活動がある〉(p.87)ということだ。
リモートワークの話に戻る。
リモートワークをはじめとする一人での作業は、〈陰〉の精神活動に向いている。物事を掘り下げ、枝葉末節を切り落とし根幹へ本質へと絞り込んでゆくには一人で集中してゆく必要がある。
それに対し、オフライン、フェイス・トゥー・フェイスで他者とワイワイガヤガヤやるのは〈陽〉の精神活動向きだ。ああでもないこうでもないと話はあっちにいったりこっちにいったりして枝葉に発展して話に花を咲かせる。異なる考え方を交配させ、実を結び、次の発展のタネを得る。
大事なのは、〈陰〉の精神活動も〈陽〉の精神活動も、両方必要だということだ。
というわけで、〈易〉の考え方を踏まえてもこれからの社会はハイブリッド化しかないだろうと占占うのだが、はてさてどうなることやら、当たるも八卦当たらぬも八卦。
「私は自分と同意見でない人は許すが、彼自身のもっている意見に一致しない人間は許せない」 フランス革命のころの政治家タレーランの言葉だ(河盛好蔵著 『エスプリとユーモア』岩波新書1969年 p.114)。 プリンシプルのない人とはつきあいづらい。 あっちでこう言ったかと思うとこっちでこう言う。
そのくせ自分の言っていることに一貫性や整合性がないことに気づかず、自分はさもいいことを言っているかのように振る舞うのはたちが悪い。
困ったことに、こうした一貫性や整合性のない言論スタイルは、SNSと相性がよい。
たとえば 「医者はムダに延命する」と言った先から「医者にかかると殺される」と言ったりとかか。 命を伸ばしながら縮めることはできない。どちらでもいいので、どちらかに一本化してほしい。
大マスコミにもこういうスタイルはあふれている。
「医療費は減らすべきだ」と書いたらすぐに「医療を成長産業に」と書いたりする経済新聞とか。
医療が成長産業になれば市場規模が大きくなるので医療費は増える。
どっちでもいいけど、自分の中で一貫性のないことや論理的整合性のないことを言っていて恥ずかしくないのだろうかと思うがどんなもんだろう。
若い人へ。
ネット上では社長や教授のハイパーアクティブなツイートを見かける。「何者かに成れ」という圧力が強い世の中である。
だが、あれを見て「俺はまだまだだ」と凹む必要はない。
なぜなら、社長や教授は『鬼滅の刃』の“柱”みたいなもの、渋澤栄一のいう“偉き人”で、どこかイカれてるところがある。 “隠”や隊士がいてこそ鬼殺隊だし、社会には渋澤栄一翁のいう“完(まった)き人”が必要だ。
そりゃあまあ、なれるものなら”偉き人”や“柱”になりたいけどみんながみんな“柱”になれるわけでもない。
世に言う”偉き人”というのは、智情意がアンバランスで、なにかが欠落しているかわりにほかの何かが突出している。それに対し、”完き人”は智情意のバランスがよい。
渋澤翁は、“偉き人”は智情意がどこかアンバランスですごいけど、智情意がバランスのよい“完(まった)き人”は社会で引っ張りだこだと書いている(『論語と算盤』参照)。
それに、”偉き人”というのは狙ってなれるわけではないところがある。
司馬遼太郎が、「英雄には2種類いる。自ら目指して英雄になった者と、ならざるを得なかった者と」みたいなことを書いていた。
“柱”や“偉き人”もしかりで、おそらく多くの“柱”は、ならざるを得なくてなったはずだ。 己の底から突き上げてくる何かとか、時代や環境とか、そうしたものが相まって”偉き人”を生み出していく。
ウクライナのゼレンスキー大統領だって、平和な世ならコメディアン出身の面白大統領で終わっていたかもしれない。ゼレンスキー大統領が面白大統領のままでいられる世界線のほうが、何億倍もよかったのだが。
”偉き人”を”偉き人”たらしめる内側から突き上げる衝動、自己表現欲求とか事業欲とかは、時に自分や周囲を焼き尽くす炎となる。
古来より破滅型の天才というのは多いし、あるいは家族がうまくいかないケースとか。
先日も、とある漫画家が、家族のツイートで炎上していた。
「何者かになりたい」「何かを成し遂げたい」という欲求は、多くの場合、まわりを巻き込んでしまう。そしてそれは時に悲劇となる。
それでも“偉き人”になりたければ、淡々とやるしかない。 淡々と、濃密に、システマチックに。 ラッパーのエミネムは、定時でレコーディングを上がるという。
自分や周囲を焼き尽くしかねない表現欲求という“炎”をうまくコントロールし、淡々と濃密にシステマチック積み重ねる偉大な表現者として、『こち亀』の秋元治氏、本宮ひろ志氏などをイメージしている。音楽だとB'zとかローリング・ストーンズとかもそうだろうか。
「何者かになれ」「何かを成し遂げよ」。
スマホの画面から押し寄せてくるそうしたプレッシャーにへこたれそうになったら、”偉き人”もよいが”完き人”も悪くないということを思い出していただければと思う。
もっとも、
〈(青年は)偉い人になれと言わるれば、進んでこれに賛成するが、完き人になれといわるれば、その多くはこれを苦痛に感じるのが、彼らの通有性である。〉(『論語と算盤』角川ソフィア文庫 平成二十年 p.105)と渋澤翁も書いているから、若者に聞いてもらえないのは承知の上だが。