「自分の頭で考えて!」にまつわるうさんくささについて(自ツイまとめ)

(保管用の自ツイまとめです。そのうち文章として形を整えたいと思っています)
・「自分の頭で考えて!」とかいうの、そっちが望む答えを言わないかぎり「それは本当に自分の頭で考えたことなの?」「誰かに言われたことを鵜呑みにしてるだけ」と激詰めされ続けたりするからカルトやマルチの手法だよな あるいは小学校の学級会 「みんなで考えたんだね.でも先生は違うと思うなあ」的な

 

・全体主義集団の「自己批判」とかも同じ手法ですね。

「自己批判せよ!」「総括せよ!」「その程度では真の自己批判とはいえない!」「もっと自己批判を!」ってやって洗脳したり精神崩壊させたりする手法。 そういう集団からはただちに今すぐ離れたほうがよい。

 

・「そんなのはほんとうの自己批判じゃない!1週間後にこの店に来てください。オレがほんとうの自己批判を見せてやりますよ!」 次週、究極の自己批判vs.至高の自己批判! …書きたかったから書いた。後悔はしていない。

 

・「自分の頭で考えて!」っていうやつへの反発は、なんでお前が正解知ってる側の設定なんだよってことやね。

 

・ああわかった。 「自分の頭で考えて!」っていうのに反発を感じるのは、一見フラットで対等に見せかけて、実は相手が望む答えを返さなければ「本当にそれでいいの?もっと考えて」と激詰めされる相手が承認のキーを持ってる上下関係、権力勾配が隠されているのがイヤなんだ。安っぽい欺瞞・偽善。

 

・「自分の頭で考えて!」という人たちの中には、実は「対話」する気なんか全然ない人たちが少なくない。

 

・こういうの、友達家族的パターナリズムとでも呼べばよいのか。

 

 

アラフィフを襲う、バケツ1杯の水に墨汁1滴垂らしたくらいのある感情について。

(自ツイートを保管用にまとめたものなのでぶつ切れの文章です)

・逃げも隠れもしない団塊ジュニア世代なんですが、団塊ジュニアや氷河期世代は時々きちんと「こんなんワシらが望んでた未来とちゃうで」ってことは言っとかないといけないと思う。現状が変わらなくても。 犬は吠えるがキャラバンは進む。 けれど、キャラバンが進んでも犬は吠え続けるのだ。

 

・異議申し立てくらいはしとかないと、後世の人に「氷河期世代は自分の境遇に異議はなかったらしい」と思われちゃう。

 

・長い間、上がつかえていてなおかつ下が入ってこない「永遠の“最近の若いヤツ”」世代でしたがようやく上の世代(厳密には上の上の世代くらい)が抜け始めてやっと団塊ジュニア、氷河期世代が責任年代になってきました。特にオールドトラディショナルな分野 文句言いながらも社会を回してまいりましょう。

 

・団塊Jr・氷河期だからなのか、アラフィフだからなのか不明だけど、バケツ1杯の水に墨汁1滴垂らしたくらいのうっすらとした希死念慮をなんとか飼いならしながら生きてる感じ 。ある年代に差し掛かると、エロスの女神よりもタナトスのほうが魅惑的に見えてくる。自分がこの歳になってはじめて実感したけれど。

この先どうなるかはわからない。50歳越えるとすこんと何か取り憑いていたものが落ちるのか、それともこのままバケツの中の墨汁の色味がじわりじわりと濃くなるのか。

一人ぐらしの高齢者が犬とか猫とか飼うの、ああしないとこの世に自分をつないでおくものがなくなっちゃうからではないかと思う。

 

・現実問題として、このうっすらとした希死念慮に飲み込まれるわけにはいかない。これをどう飼い慣らすかについて、借金玉氏の考えを借用しようと思う。

 

〈自己肯定は無根拠であるに越したことはないのです。根拠のある自己肯定は、根拠が失われれば消え去ってしまう。 では、無根拠な自己肯定を手に入れる方法は何か。それは無根拠に他者の生を肯定することそのものだと思います。他者を肯定した分だけ、自分も肯定していいという考え方です。〉(借金玉『発達障害の僕が「食える人」に変わったすごい仕事術』株式会社KADOKAWA 2018年 p.249)

 

・ひとさまに「生きろ」というのは無責任なことだが、「根拠は無いけど生きてていいんじゃない?生きてるほうがいいよ、よくわかんないけど」くらいは言ってもいいんじゃないかと思う。この世界は生きている者、生きようとする者のためにあるはずだ。根拠はないけど。

 

 

 

 

Twitter大量リストラに思う「一産業30年仮説」。

米国のハイテク企業でリストラが加速しているとかで、Twitterでも猛烈な首切りが行われているらしい。そんななか、一産業30年説という仮説を思い出した。
こんなものだ。
 
①最初の10年、その産業が海のものとも山のものともわからない勃興期には、ギラギラとした野心家、山師、オタク、はみ出しものといった人材が参入する。
 いわゆる高学歴のキラキラ陽キャみたいな人にはその分野は見下されている。
 
②次の10年、その産業やその分野が安定成長してくると、手堅く実務を回す人たちが参入する。
安定成長のためキチンとした人たちが必要なので、勃興期のクレイジーな創業者たちも、学歴でいうと中堅どころの実務家を雇う。
レガシー産業と比べるとまだリスキーな分野なので待遇は良くして人材を募る。
 
③最後の10年、その産業分野が世間から注目されると、好待遇や世間からの注目を目当てに高学歴キラキラ陽キャ人材が参入する。
彼らは勃興期のギラギラもなく安定期の手堅さもなく、今まで20年で築かれた業績のおこぼれに預かる。最後の10年に参入した人材が遺産を食い尽くして、その産業は没落する。
 
ドッグイヤーと呼ばれるIT分野ではそれが早回しで起こる。
Twitter社などのIT分野でものすごいリストラが始まっているが、おそらく経営者側から見て③にあてはまる人たちが急速にクビを切られているのだろう。
イーロン・マスク氏は明らかに一本ネジの飛んだクレイジーなテックジャンキーの①の人だし。
 
蛇足ですが「中興の祖」みたいな人は②の人材ですね。
①のクレイジーな創業者と②の手堅く堅実な実務家が、お互いに「こいつとオレとは全然別の“人種”だよな」と思いながらも尊重しあう関係性がツボです。
ビートたけしの『Brother』に出てくる日系アメリカ人のおじいちゃん会計士さんに萌えます。
イタリアマフィアの襲撃を前に、「この人巻き込むわけにはいかねーな」って感じで、殺される覚悟を決めたビートたけし演じる「アニキ」が「ご苦労さん、もう上がっていいよ」って声をかけると、会計士さんが「これだけやっちゃいますから」と残業するようなシーンがあるんすよ。
あれがいいんすよね。
 
若い頃は①の人材に憧れましたけど、今は②の人たちにぐっときますね。缶コーヒーのCMの「世界は誰かの仕事で出来ている」的な。
歳とって分かりましたけど、そもそも①の人材は憧れてマネしてなれるもんじゃなくて、天性のものとかオタク気質のなせるわざですね。
 
さらに蛇足。
上では①、②の人を良く書いてますが、②の後期に、実務家ではあるが形式至上主義者、「何かあったらどうするんだ」な人などが紛れ込んできて、③の時期に「大企業病」も始まるのだと思います。
 
一産業30年仮説はあくまで仮説に過ぎないが、一考に値する仮説だと思われるのでご紹介まで。

 

 

君は八千代チャーマーを見たかー社会の包摂とハローキティ。

人の世は不条理で、たとえば同じ時代に生まれ、同じスタートラインから「ヨーイドン」でスタートしたとしてもその後の人生はまったく異なる。
ぼくは1973年生まれでそれなりに頑張ってきたつもりだが、たとえば翌1974年生まれのハローキティには人気も収入も到底及ばない。 
キティのやつ、総収益が約8.8兆円だそうで、同学年としては随分差がついたものだ。
どこでこんなに差がついたのか今となってはわからないが、こういうのがいわゆる「格差社会」というのだろう。
キティちゃん、いや敬意を込めてこれからはキティさんと呼ばせてもらうが、キティさんと同じ学年に「八千代チャーマー」ちゃんがいる。
おかっぱ頭と和服が似合うおしとやかな女の子だが、誰かこの八千代チャーマーちゃんのことを覚えているかたはおられるだろうか。
あるいは八千代チャーマーちゃんは覚えていなくても、同学年の「バニー&マッティ」のことは覚えているかもしれない。

この人が八千代チャーマー(公式サイトより)
いずれにせよ1974年生まれのキティさんと八千代チャーマーちゃん、バニィ&マッティの間には、いまや埋めがたい差がついてしまった。最近では同窓会やっても全然盛り上がらないともっぱらのウワサである。
 
こうした格差は現代の大きな問題の一つだが、競争社会である以上、スタートの平等が確保されていればある程度の格差は仕方がないのかもしれない。
しかしながら見落としてはいけないのは、社会の包摂力である。
 
現状、キティさんと八千代チャーマーちゃんでは相当以上の格差がある。
だが、サンリオ社会は成功者のキティさんを賞賛しこそするものの、八千代チャーマーちゃんの存在を無視したりしない。決して八千代チャーマーちゃんのことを「黒歴史」として葬ったりはしないのだ。
サンリオ公式サイトではキティさんも八千代チャーマーちゃんもバニィ&マッティも等しく存在が認められ、今も1974年生まれとして仲良く並んでいる。
この包摂力こそ、我々が見習わなければならないものなのではないだろうか。
 
包摂が必要な理由は、ヒューマニズムだけではない。プラグマティズムでもある。
サンリオ公式サイトを見ると、今もまた次から次へと新たなキャラクターが生まれいることがわかる。
2020年代に生まれたものだけでも、「ぼさにまる」「まいまいまいごえん」「ぺたぺたみにりあん」などなど、キティさんの活躍に甘えることなく新しい才能を世に送り出しているのだ。
 
正直、そうした才能たちの誰が大成するかはわからない。
だがもしかしたら、そうした新しい才能たちの中から次の世のキティさんが生まれくるかもしれない。
こうした若手たちは飲み会のたびに「オレ、キティさんみたいにビッグになりたいっす」と夢を語っているという。
次々とこうした若い才能にチャレンジを許せるのも、サンリオ社会が包摂力に富むからである。
日本社会も、包摂力に裏打ちされた自由で活力のある社会を目指したいものである。
 
蛇足になるが公平を期すために言及する。サンリオ社会の包摂力の源泉はキティさんのがんばりにある。
どんな仕事も嫌がらずに引き受けたからこそキティさんはこれだけの成功をおさめ、サンリオ社会を豊かにして包摂力を高めた。
普通であれば「ワイがなりふり構わず頑張って稼いだのになんで売れない同期や後輩を養わなければならないんや」と言って闇営業したり独立して個人事務所を立ち上げたりしそうなものだ。だがキティさんは決してそうしない。なぜそうしないかについては、キティさんは黙して語らず静かに微笑むだけなのだ。

SNSとゲニウス・ロキ。

「大阪の会社はね、よく本社を東京に移すでしょう。
でも京都の会社は本社を東京に移さない。
なんでかわかります?
京都から本社移す必要がないからですよ」
そんな話を聞いたのは京都の霊山歴史館でだった。
KYOTOは世界ブランドで世界中みんな知っている。みなが京都に来たがるし、京都のメンバーになりたがる。
せっかく京都のメンバーなのに、なぜ東京“なんぞ”に下っていく必要があるのか。話してくれた人の言葉の端々からそんな自信がみなぎっていた。
 
「ゲニウス・ロキ(genius loci)」という言葉がある。
もともとはローマ神話の土地の守護精霊のことで、今では「土地柄」「その土地の雰囲気」みたいな意味で使われるらしいが、京都のゲニウス・ロキは本来の意味で誇り高い守護精霊なのだろう。
 
ゲニウス・ロキ、土地の守護精霊という言葉が与えられるといろいろ空想が広がる。
北海道のゲニウス・ロキはおおらかで心が広そうだなとか、沖縄のゲニウス・ロキは三線弾きながら訪れた人に魔法をかけて魅了したりして”ヒキ”が強そうだなとか。
 
ゲニウス・ロキは物理的な土地以外にもいる。
仮想空間であるSNSやネットサービスもまたそれぞれのゲニウス・ロキを持つ。
Facebookのゲニウス・ロキはちょっと傲慢で見栄っ張りだし、Twitterのゲニウス・ロキは人を見下すところがある。
YouTubeのゲニウス・ロキは人間の時間とやる気を吸い取って糧とするし、Amazonのゲニウス・ロキは人間の物欲を刺激するのがうまい※。
 
自分が今いる場所のゲニウス・ロキがどんな性格でどんな性質を持つか妄想し、何かあったら「この土地のゲニウス・ロキのせいだな…」と呟いてみるのも、中2心をくすぐられて趣き深いと思うのでお試しください。
※この部分、ネットフォークロアの「ネットサービスと"7つの大罪”」を下敷きにしている。

togetter.com

 

 

 

地方都市にいくとポツンと建っている、おしゃれな繁盛パン屋は誰が経営しているのか?ー藤野英人著『ヤンキーの虎』をお勧めする。

「地方都市に行くとオシャレなパン屋がポツン建っていてかなり繁盛している。いったいあれは誰が経営しているのか。
それは、『ヤンキーの虎』だ!」
藤野英人『ヤンキーの虎 新・ジモト経済の支配者たち』(東洋経済新報社 2016年)はそんな本だ。ベッドタウン育ちのぼくにとっては滅法面白かったのでご紹介したい。
「ヤンキーの虎」は原田曜平氏の提唱した「マイルドヤンキー」をもとにした言葉だ。
経営コンサルタントで日本全国を回っている藤野氏によれば、人口減少などによりマーケットが縮小している地方においても、しっかり儲けている若い事業家がたくさんいるという。彼らこそが「ヤンキーの虎」だ、と著者はいう。
ヤンキーの虎たちの特徴は、
〈「地方を本拠地にしていて、地方でミニコングロマリット(様々な業種・業務に参入している企業体)化している、地方土着の企業、あるいは起業家」〉(前掲書kindle版p17)だ。
ヤンキーの虎たちは、「儲かりそうなものはなんでもやる」ために、ミニコングロマリット内の複数事業は互いに関連が薄いことも多い。
建設業、不動産業、介護施設経営、ガソリンスタンド経営…互いに脈絡のない事業を、経営者が統括している。
そしてある事業の見通しが暗いとあっさり撤退し、ミニコングロマリット内のほかの事業に人を振り分ける。
複数事業のヘッドクォーターが一つなので、バックヤード費用がセーブできるのもヤンキーの虎スタイルのメリットだ。
なぜ縮小市場の地方で若い「ヤンキーの虎」が勝てるのか。
前掲書によれば、「競争相手がヌルいから」。
(あくまで前掲書が正しければだが)地方都市では、競合相手の経営者というのは高齢化していて、昔ながらの商売の仕方をしている。自分のリタイアとともにこのまま緩やかに店じまいしていければよいとすら考えている。

 

一方、東京など中央からの大資本は「選択と集中」で地方支店から撤退していたりする。
その空白地帯に若い「ヤンキーの虎」たちは東京などの成功モデルを「タイムマシン経営」で地方に持ってきて成功するのだという。
冒頭の、地方都市のオシャレなパン屋もその一例だ。
『ヤンキーの虎』にはまだまだ面白いことが書いてあって、人間社会のダイナミズムを感じて楽しい本なのでよかったらぜひ。

付記)2014年刊行の『ヤンキー経済』では、マイルドヤンキー向けにおしゃれに中古ブランド品買えるアプリがあったら流行るんじゃない?って書いてあって(p.160)、メルカリの隆盛を予言しててすごい(メルカリは2013年設立とのこと。博報堂がメルカリの運営に携わっているかは中の人教えてください)。KREVAの『イッサイガッサイ』も同書で知りました)

我らが社会と陰と陽。

「俺らの世代は撤退戦。前の世代が広げ過ぎたものをうまく畳んで、次の世代に手渡すのが俺らの世代の仕事じゃないかな」
今から10数年前、友人Oがしきりにそんなことを言っていた。
当時は、そうは言ってもなにかやりようがあるのではと反論したりもしていたが、やはりOの言葉は真実ではないかと思うようになってきた。
言うまでもなく、少子化がすべてに影響している。
 
だが、畳むにしてもうまい畳み方とそうでない畳み方がある。
四書五経の一つ『易経』に、陰と陽の考え方がある。
安岡正篤氏によれば、陰とは収束、集中する力、陽とは発展、拡大する力だという。
 
植物をイメージして欲しい。
種から芽が出て、茎が出る。茎はやがて根を伸ばして幹となる。幹からは枝がにょきにょきと伸びて葉を茂らせ、花を咲かす。この、幹から枝を伸ばして葉を茂らせる力が陽である。
逆に、繁茂しすぎた枝葉を落とし、幹へと根へとエネルギーを集中させてゆく力が陰である。
 
陰と陽はともに重要であり、陰の方向性のエネルギーと陽の方向性のエネルギーを止揚し中することこそが重要だと『易経』は教えている(と安岡氏は説いている)。
 
冒頭の話に当てはめると、我らの世代の撤退戦は単なるダウンサイジングであってはならない。それは単なる衰退である。
そうではなく、繁茂し過ぎた枝葉を剪定し、幹や根、まさにものごとの根幹にエネルギーを集中するということだろう。
そのためには、何がこの社会の根幹であるか、どの枝葉を残すべきかをよくよく見極めなければならない。
次なる陽のために、次なる世代の種を残すために。